「先取り」より「先送り」のほうがいいのでは…?
早期教育の場合、幼児で小学◯年生のドリルをやったとか、公文で◯学年先取りしてるとか、いかに早く先の勉強を習得したかということが重要なポイントになることが多いように思います。
早期教育とまで言わなくても、まだ字が読み書きできない、時計が読めない、自転車に乗れない、など、「まだ◯◯できない」ことを気に病む傾向はわりと普通に見聞きします。
しかし、もしかすると遅くてもいい、もっと言うと遅いほうがいいのでは、と考えさせる2つの説があります。
ひとつは「間違いだらけの子育て」という本です。
7歳時には、頭の良い子どもの大脳皮質は普通の子どもより分厚い。ところが、後に知能優秀な飛び抜けて頭の良い子どもの大脳皮質は、幼児期には普通の子どもよりはるかに薄かった。最大の厚さに達したのは11歳か12歳になってからで、普通の子どもより4年ほど遅れていた。
中学受験界隈で、小学校高学年で爆伸びする子がいるということですが、ちょうど年齢が当てはまります。
小児期には脳の左半球が伸びるので、言語の知識が著しく増加する。ところが、高次の推論に必要とされる前頭前野の新皮質は、思春期直前まで発達を始めない。
5歳から18歳までの間に、脳は脳葉間を接続する神経線維束の増強も行っている。線維束の編成の10%向上がIQ80以下と130以上の分かれ目となる。
思春期以降に前頭前野が発達し始めるのであれば、ビリギャルが慶應大に合格したり、ドラゴン桜で低偏差値から東大合格したり(マンガですが)というのは、充分ありえそうであり、むしろ脳の発達に合わせた非常に効率のいいやり方なのかもしれません。
子どもが年を重ねるうちに、知能処理の領域は移り変わり、大人と子どもではまったく異なる脳の使い方をしている。
本当に優れた認知能力の発達という意味では、発達速度は“遅い”ほうが有利である可能性を脳科学は示唆している。
発達速度を外部からの働きかけでコントロールできるのかは不明ですが、遅いものをわざわざ早めないほうが良いのかもしれません。勝手に早く発達してしまうのはどうしようもないですが。
小学校卒業までは、ガツガツ勉強などせず、のびのび遊んでストレスをためず、栄養と睡眠だけ気をつけるのがベストなのかなあという気がします。
実をいうと、読書もほどほどにしたほうがいいんじゃないかと最近思い始めています。
もうひとつの説は以下の記事です。
複数の単語が複雑に組み合わさった入れ子構造の文章が理解できるかどうかは、受け手の前頭前野外側での「統合」能力にかかっている。そしてこれを可能にするメンタル統合能力の発達には、非常に重要な時期があるという。
メンタル統合能力だけは、だいたい5歳くらいまでの幼児期に再帰構造のある言葉に触れておかないと、大人になってもこれを習得することはできないという。
現在の子どもは5歳前後まで言葉の再帰構造の習得が可能だが、これがいまだ言葉があやふやな2歳までとなると無理がある。このことから、脳の前頭前皮質の成熟を遅らせる突然変異があったというのが有力な説だ。
とにかく、前頭前皮質をの成長を先延ばしして、その間にたくさんのことを習得させることが鍵のようですね。
さらに興味深いのが、以下の部分。
現在、すべての人間がもつ「前頭前皮質遅延」は、生存という視点で見ると有害だったと思われる。論文によると、3歳のチンパンジーの子どもは母親からよく離れて冒険するが、水場に近づくことはめったにない。前頭前皮質の迅速な成長が、水は危険なことを理解させるのだ。
これとは対照的に、4歳未満のヒトの子どもでは溺死が主な死因である。ヒトの3歳児は、ほかの3歳の動物と比較して未熟であり、ひとりで幼児期を生き延びる可能性が低い。このため「前頭前皮質遅延」の突然変異からは、死亡率の増加が予測されるのだ。
生存に最適ではないような種が、後の飛躍的発展に繋がるというのは面白いです。現代においても、優秀とされる人(環境下の最適解)よりも、ちょっと困った人、生きづらい人なんかが可能性を秘めているのかもしれません。
ここ数年、発達障害の話題が増えたように思いますが、実はこれらもニュータイプなのかも?
社会全体では、寿命が飛躍的に伸びて数十年経つので、30代、40代位まで前頭前野の成熟を遅らせてもいいだろうとかで、いい年して自立できない大人が増えているとか….?
ただ、もしそうだったとしても、人類全体には発展のチャンスかもしれませんが、当事者にとっては溺死並みの生きづらさがあるのであれば、我が子達は旧タイプでいいかな(笑)
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